本当の勉強とは、知識を蓄えることではありません。
知恵を身につけることでもありません。
技術を身につけることでも、お金を集めることでもありません。
意識を高めることをいうのです。
心ということです。
本物の経験をして、たくさんの勉強をすると、最後に残るのは意識だけです。
意識しか残りません。
本当に大切な勉強は、意識だということに気づきます。
知識や知恵は時間が経つと忘れてしまい、技術もだんだん衰えます。
最後に残ってしまうのは、意識だけです。
たとえば、優しさという勉強をあなたは、どう学びましたか。
優しさという心は、どんなにたくさん本を読んでも身につけられることではありません。
本には「優しくなりましょう」と書いています。
「困った人を助けるといいのだな」
「弱い人には優しくすればいいのだな」
頭では理解できます。
しかし、いくら頭で理解できても、実行できないのです。
本当の勉強ではありませんから、生活でうまく行動できません。
知識のレベルでは、意識が低く、生活に浸透しません。
本当に勉強ができたときには、必ず意識が高くなり、生活にもその影響が反映されます。
実際に自分が交通事故に遭い、病院で治療を受ける経験をしたとき、本当の優しさを学べます。
自分が本当に苦しんでいるときに優しくしてもらったことで、人への感謝の気持ちが自然と出てくるようになります。
「弱い人には優しくしたいな」という濁りのない、本当の優しい気持ちが出てくるのです。
これが、意識ということです。
本を100冊読んでも学べない勉強です。
どんなに勉強しても、技術を磨いても、学べることではありません。
最後に残るのは意識であり、最も大切な勉強なのです。
本当の勉強とは、往々にして「苦しい経験」としてあなたの目の前に現れます。
神様は、あなたの心の筋肉を鍛えるために、ほどよくつらい経験を与えてくれます。
もちろん苦しさから逃げることもできます。
しかし、勇敢に苦しさに立ち向かえば、本当の勉強ができ、意識を高めることができるのです。
つらい経験、苦しい経験、悲しい経験によって、学びができるのです。
私は祖父が死んだという経験を目の当たりにして、命の大切さを学んだことがありました。
祖父は私が16歳のとき、飛び降り自殺で亡くなりました。
身内が一瞬にして亡くなり、冷たくなった体を肌で感じたとき、本で読んだ「命を大切に」という勉強は茶番だと気づきます。
元気だった祖父が、青ざめて氷のように冷たくなっているのです。
死んで冷たくなった祖父に触れたとき、人の死というものを「頭」ではなく「体」で知りました。
自分にとって大切な人が亡くなってしまったときには、学校で習う学習とは比べものにならないほどの勉強ができ、痛感します。
涙が止まらないほど心にしみて勉強できるのです。
祖父が死んだとき、私は呆然自失となり、自然と涙がこぼれてしまいました。
止めようと思っても止まらないほどです。
本当の勉強をしたときには、必ず感動します。
心が揺れ動き、意識が変わります。
たしかに悲しい経験をしましたが、身内の死を経験することで、私の意識が高まり、大切な勉強ができたのでした。
祖父の死と引き換えに、私はとても大きな学びができたのです。