「他人にどう思われているのだろうか」
「他人から見たあなた」というのが存在します。
また一方で「あなたが思うあなた」がいます。
「私はこんな人間だ」
鏡を見て、見える自分がいます。
他人が思うあなたも、あなたが思うあなたも、実はどれも本当のあなたではありません。
外側の見た目・形・大きさだけで判断している、物質的な判断です。
人間の中には、頭だけでは考えることができない、本当の自分がいます。
愛であり、光です。
本来、目に見えるものではありません。
大げさな話と思わないでください。
むしろ、当たり前の話です。
親は、子を大切に育てようとします。
どんな親にも共通する、愛の心です。
「いえいえ、うちの親は怖い」
親が怒ったり叱ったりするのは、子どものためを思っているからこそです。
本当に子どものことを考えているから、しつけのために、喜怒哀楽があります。
人に限らず、馬も同じです。
生まれたばかりの子馬にお乳をやって、育てようとする親馬の愛があります。
誰からそうしろと教わったわけでもないのに、自然と子を大事に育てようとする愛がもともと備わっています。
道に生えている草も、また同じです。
おしべとめしべを合わせたとき、新しいタネが生まれます。
植物の繁栄は、種を存続させたいという愛があるからです。
鳥も、同じ。
魚も、同じ。
草花も同じ。
生きとし生けるすべての万物には、根底に「愛」という本当の自分があります。
人間・馬・鳥などは、単なる外側の皮をかぶっている姿にすぎません。
見た目・形・大きさこそ違いはあれ、同じ資質である愛からできています。
万物には、共通する真の自分が存在しています。
それが「愛」であり「光」です。
「他人から見た自分」も「自分から見た自分」も、どちらも外側の皮だけを見ているにすぎません。
誰でも悲しいときには涙を流し、誰でも楽しいときには笑います。
それは心の奥底に、愛という本当の自分がいるからこそです。
それこそ、真の自分です。
すでに自分の中にあるのですから、引き出すだけでいい。
本当の自分に気づいたとき、私たちはすでに完全であるということがわかります。
本当の自分とは、愛という本当の自分を引き出すものです。
私たちは、素晴らしい自分になろうと、勉強したり、きれいな服を着たりします。
これらは表面的なことにすぎません。
本当は、完全な自分がすでにあるのですから、引き出すものなのです。
瞑想をして自分が見えてくるのは、引き出しているからです。
テレビ・音楽・明かりなどでインプットしなくても、そもそも自分の中にあるのですから、引き出せばいい。
瞑想をしている時間は、本当の自分が、内側から引き出されている瞬間です。