「我慢はいいことだ」
こうしたことを学校では何度も言われてきました。
戦争を経験した世代は、食べるものがなかった時代を経験しているだけに「我慢=美徳」という考えに強くこだわっています。
嫌いな勉強も「我慢してやりなさい」と言われていたものです。
「気が進まないけど、仕方ないからやろう」と思い、やむなく勉強をしていたものです。
学校では「勉強しなさい」と言われ、家に帰ってきてからも母から「勉強しなさい」と言われます。
私は中学校のころ、野球部に所属していました。
野球部では、喉が渇いても、水を飲んではいけないというルールがありました。
練習中に水を飲むことは、甘えている姿に映ったのでしょう。
休憩時間を除いて、水を飲むことは許されませんでした。
我慢をしろと言われ、そのとおり我慢をしていたものです。
喉が渇いて頭はぼうっとするし、集中もできません。
のちに、喉が渇いても水を飲まずに我慢していると、脱水症状を起こすという話を耳にして、私はがくぜんとしたものです。
危険なことをしていたと思うと、我慢するのではなかったと後悔します。
当時の私は、我慢をしながら生活していたものです。
「頑張って勉強します」というと「偉いね」と褒められます。
「つらいけど我慢します」というと「すごいね」と褒められます。
褒められるから、いいことなのだと勘違いしそうです。
しかし、実際は、偉くもすごくもなんともないのです。
自分で、自分を傷つけているだけです。
今思えば、我慢が伴うことは、自分にとってどれも毒であったことに気づきます。
我慢ばかりをしていたため、当時の私は「勉強=嫌なこと」と感じるようになっていました。
頑張ることは、必ずしもすごいことではないのです。
「でもそうは言っても、小学校のころは集中して勉強をさせないといけない」
そう言いたい人もいることでしょう。
たしかに小学校や中学校で習うことは、どれも基本的なことばかりであり、欠かせない大切な勉強です。
勉強をすることがいけないと言っているのではありません。
我慢をしながらさせる方法に、問題があるということです。
本当に身につく勉強とは、楽しくできる勉強です。
本来勉強は、楽しいものです。
楽しく学べることです。
我慢をしながら機械的に、無味乾燥に勉強をさせると、一時的に身についても、本当に身についたとは言えません。
だから試験が終われば、あっという間に忘れます。
「勉強の楽しさを教える」という教育は、学校にはありません。
突然「これを覚えなさい。この漢字を読めるようになりなさい。この問題が解けるようになりなさい」と教科書を渡されます。
いくら大切な内容でも、こんな冷たい教え方では、身につきません。
「勉強の楽しさを教えるという教育」が、学校では不足しているのです。
今、勉強が楽しくてなりません。
誰に言われるまでもなく、自分から本を買って勉強しています。
勉強の楽しさを知り、勉強したくてたまらなくなったのです。
高校1年のころ、部活動の帰りに立ち寄った本屋で、ふと手にした本がきっかけになり、勉強の楽しさに気づきました。
その本は「勉強を教える本」ではなく「勉強の楽しさを教えてくれる本」でした。
それからというもの、勉強に夢中です。
貪るように本を読み、それから本当の勉強をするようになったのです。