「純粋な人」
そう聞いたとき、どんな様子をイメージするでしょうか。
「純粋」という響きのためでしょうか。
真っ白な心をイメージが浮かびやすいためか「無知」を連想することが多いでしょうか。
こうしたイメージによる先入観のためでしょうか。
「純粋な人になるには、無知になればいい」と考える人もいるかもしれません。
純粋には真っ白なイメージがあり、無知を連想しがちです。
しかし、ここに誤解があります。
純粋になるとは、無知になることではありません。
ばかになることでもなければ、非常識になることでもありません。
純粋とは何か
純粋とは、気持ちに打算や損得勘定がなく、心が清らかなことをいいます。
無知だからといって、純粋とは限りません。
無知であっても、打算や損得勘定で振る舞っているなら、純粋な人でなくなります。
「純粋な人には無知が多い」と思っているなら先入観です。
純粋とは、知識ではありません。
心持ちであり、行動習慣です。
無知だから純粋になれるわけではないのです。
一方、逆のパターンもあります。
「博識になれば、純粋になれない」と思っている人もいるでしょう。
世の中を知れば知るほど、良い面だけでなく、悪い面も知ることになります。
社会の裏側を知って失望することもあるでしょう。
世の中の不条理を知ってしまい、あぜんとすることもあるでしょう。
嘘をつかれたり裏切られたりして、人を信じることができなくなることもあるでしょう。
報われない努力があることに気づいてしまい、無気力に襲われることもあるかもしれません。
結果として、人や社会に対する不信感が高まります。
「博識になったら、もう純粋にはなれない」と思う人もいるかもしれません。
やはりこれも誤解です。
思い出してください。
純粋とは、気持ちに打算・損得勘定がなく、心が清らかなことをいいます。
知識が多くても、打算や損得勘定を考えないことができます。
たとえ博識であっても、打算や損得勘定といった邪念さえなければ、純粋な人になれます。
無知だから純粋になれるわけではありません。
博識だから純粋になれないわけでもありません。
純粋と知識量は無関係なのです。