尊敬される父親とは「熱心に教える姿勢」と「放任できる姿勢」の両方を持ち合わせています。
相反する2つの姿勢ですが、実は2つで1つなのです。
一方だけではバランスが悪く、必ず両方が揃ってこそ、教育は成り立ちます。
子どもが「なぜ?」と質問してくれば、熱心に教えます。
もちろん父のほうが年上ですから、知っている量は当然多い。
知っていることをできるだけわかりやすく説明しようとします。
しかし、子どもが納得して、行動し始めると、今度は放任します。
「自分の頭で考え、自分で行動させる」ということも、また学んでほしいからです。
自分の意思で行動させ、体験量を増やすようにします。
子どもは興味を持って質問しますが、ある程度の知識の土台ができると、今度は自分で調べたり、作ったり、試してみたりします。
その段階までくると、父親は「教育魔」から「見守る役」へと変身するのです。
私の父は、機械関係の仕事をしていたため、よく会社で使っている部品などを見せてくれました。
仕事の続きを家でするため、会社で使っていた部品を、私も一緒に見たり触ったりしたものです。
「これ何? これは何に使うの?」と、父を質問攻めにした記憶があります。
機械は父の専門ですから、熱心に丁寧に、わかりやすく教えてくれます。
一つ一つの部品の意味がわかり、役割を理解すると、いらなくなった部品をもらい、私が自分勝手に組み立てたり実験したりします。
その段階になると、一転して、父は何も言わなくなるのです。
私をほったらかしにして、好き勝手にさせます。
それは、父からの愛の表現だったのです。
話を聞いているだけでは本当に理解できないからこそ、自分で見たり触ったり、組み立てたりします。
本当に学んでほしい気持ちからです。
その父の放任のおかげで、私は自分の好きなように学べて、自然に伸びていきました。
もし、父が教育魔のままなら、私は過剰な教育に嫌気が差していたことでしょう。
父が子のやりたい気持ちを尊重して、放任させてくれたからこそ、自然な才能が伸びていったのだと思います。
花はまず水が必要ですが、水をやりすぎては、今度は成長できなくなります。
ある程度、水をやれば、ほったらかしのほうが、成長します。
水が欲しくなれば、そのときにまた与えればいいのです。