今回のお話は、自分で驚きました。
私はまだ、父親になったことはありません。
しかし、不思議なことに、今回のお話はとても書きやすく、あっという間に書き終えてしまいました。
ピアノを弾いているかのように、すらすら書けてしまった。
なぜこんなにすぐ書けたのかと、自分でも驚きました。
すらすら書けたことには、理由があります。
今回のお話は、自分の父親を想像しながら書いたからです。
父は、子である私が見ても尊敬できる父親です。
またそうなりたいと思う手本です。
尊敬できる父親像を、文章として書き残しておきたい思いから書き始めましたが、それにしてもすぐ書き終えてしまいました。
なぜ書きやすかったかというと「客観的だったから」です。
主観的になるより、客観的だからこそ見えることがあります。
子どもという客観的な立場だから書けるだろうと判断して書き始めましたが、その予想は的中し、思ったより書きやすかった。
子である私から尊敬できる父を見ると、客観的になれるからです。
父としての言葉、行動、考え方は、父親本人は主観的になっていますから、当たり前と思ってしまい、なかなか見えないものです。
しかし、教育される子である私から見ると、はっきりそれが「見える」のです。
客観的になり、受け身になるほうが「どのようなところが尊敬できるか」「学びがあるのか」が具体的に見えてきます。
主観的になるより、客観的になるほうが、その動きははっきり見えるのです。
運動会では、走っている自分の姿は自分では見えませんが、応援している人からは、その動きがよく見えます。
同じように、教育する立場より、教育される立場のほうが、よくわかります。
尊敬される父親は、父親本人からは判断することができません。
教育される側が判断することです。
育てられた子である私からは、よくわかったから、すらすら書けたのでした。